日本刀の名工と言われた正宗は実在したのか

日本刀の名工と言われた正宗の在銘は極めて少なく、最も良いとされる銘の作のうち、不動正宗と紀州正宗の二口は徳川美術館に、京極正宗は宮内庁三の丸尚蔵館に収蔵されています。

「城和泉守正宗」(国宝・東京国立博物館)の茎には、金象献で「城和泉守所持正宗磨上本阿(花押)」とあり、花押から本阿弥光徳(?~一六一九)であることが考えられます。『埋忠銘鑑』に、この象慨は慶長十四年(一六O九)に埋忠寿斎が施したことが記されています。光徳が寿斎に指示して、正宗の太刀を磨上げて金象慨を施させたと言われています。

『解紛記』(慶長十二年版黒庵)には、正宗について「塩(潮)相も取分沸あざやかに匂いを敷き、少しの湯走までも沸匂の叢なく深し」と述べているようですが、正宗について、「塩相も取分沸あざやかに匂いを敷き」という表現は黒庵の文章であり、黒庵なる人物は光徳であろうと想像されます。

正宗の短刀には名品とされるものが多く、日向正宗(国宝・三井文庫)、九鬼正宗(国宝・林原美術館)、包丁正宗(国宝・永青文庫)、包丁正宗(国宝・徳川美術館)などがそれにあたるようです。正宗の短刀は茎の形から鋒にかけての曲線が独特で、他の刀工とは異なった造形です。

名工とされた正宗を生み出した師匠である新藤五国光およびその先達たち、正宗の同僚たちと十哲に数えられる名工と言われた人たち、さらに江戸時代まで正宗に迫ろうとして挑んだ刀鍛冶たち、その中には兜鍛冶から転向し江戸で勇名を馳せた虎徹、四谷正宗と呼ばれた清麿までの数百年間の名工と呼ばれた人たちが焼を競う中で、正宗は抜きん出て、神品そのものの品格を備えているのではないでしょうか。