短刀の名作

 京都の粟田口と言えば、刀鍛冶の本場とも言える場所です。そこからは何人もの名工が誕生していますが、中でも粟田口吉光は別格でした。藤四郎とも呼ばれた彼の作品は品格が高く、作風は安定しています。特に短刀作りに長けており、多くの名作を残しています。藤四郎は太刀も作りましたが、短刀とは異なり、わずか一振りしか残しませんでした。そちらも名刀として評価が高く、「一期一振」という名で知られています。
 藤四郎は所謂天下三作の一人で、正宗、義弘と共に大変な人気を博しました。その証左として、「享保名物帳」を繙くと、筆頭から16番目までを藤四郎の作品が独占しています。江戸時代の大名も、藤四郎の作品をこぞって買い求めました。彼の短刀は伝説となり、持ち主を切腹から守る刀であるとの噂が広まっていったのです。
 逸話の中にも藤四郎の刀が誕生します。例えば1493年に畠山政長が切腹しようとして藤四郎の短刀を取り出したところ、何度試しても切腹するには至らなかったそうです。政長はその短刀が悪質だからだと思い込み、怒って投げ捨てたのですが、その拍子に鉄製の薬研を突き通したと言われています。正に短刀が主人である政長を切腹から救ったと考えられる逸話で、当時の人々は大いに持て囃しました。
 藤四郎の名刀の中には「平野藤四郎」と呼ばれるものがあり、こちらは豊臣家の家臣であった木村が平野道雪から入手して秀吉に献じたという来歴からそのように名付けられているのですが、この名刀を愛した秀吉は、後に前田利長に譲り渡しました。その後は前田家で長く保管されましたが、明治時代に皇室に献上されることになりました。
 もう一つの名刀としては、「骨喰藤四郎」が知られています。足利家から入手した大友氏が改良し、再度足利家に献上したと言われています。享保名物帳にもその名が刻されており、江戸時代の大火を潜り抜けた後、京都の豊国神社に奉納されました。

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