源之助国包

江戸時代中期の刀工である源之助国包は、国包の九代目にあたります。仙台の六代包蔵と江戸の法城寺国芳に学んだとあります。本郷家を継いだものの、宝20代半ばという若さで死去しました。通称は半蔵と呼ばれていたようです。

陸奥国では仙台国包(仙台では「くにかね」ではなく「くにかん」と呼ばれていたそうです)系が最大の流派だったそうです。会津には兼定系があります。国包の初代、初代国包(山城大掾国包)は慶長の期の仙台伊達家のお抱えの御国鍛冶だったそうです。

当時の藩主伊達政宗は国包を山城の名工のもとで修行させたそうで、大阪冬の陣、大阪夏の陣には仙台に戻り伊達軍のために作刀をしたそうです。帰国した後に山城大掾を受領したと言われています。刀工の官名は4つに分けられ、ランク分けされています。1番上位が「守」。ついで「介」「掾」、最後に「目」。伊達政宗が没したあと初代国包は「仁沢用恵」と名乗り、銘を「用恵国包」としたそうです。

新刀期がはじまった慶長年代には山城の細川国広、武蔵の虎徹、会津の虎徹と称せられた三善長道などの名工が痛そうで、『懐宝剣尺』では国包、虎徹、長道ともに最上大業物(ランク付けて1番上位のもの)とされています。懐宝剣尺とは、山田浅右衛門という人物が多くの試し斬りを行い、刀工ごとに斬れ味を分類した結果をまとめた本のことで、最上大業物14工はこの本に載っているそうです。

源之助国包は生涯が短いためか残っている資料が多くありません。それがとても残念なところです。

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