来歴は、最初の所有者が織田信長次男・織田信雄。織田信雄は、豊臣秀吉と敵対関係になった際、豊臣秀吉への内通を疑った三人の重臣を家臣土方勝久に命じて誅殺した。
土方勝久が使用した刀が「鯰尾藤四郎」といわれている。この事件が豊臣秀吉を激怒させ、天正12年の小牧長久手の戦の引き金となった。のちに土方勝久は、豊臣秀吉に仕えるようになり「鯰尾藤四郎」を豊臣秀吉に献上した。
豊臣秀吉薨去後は嗣子豊臣秀頼の所有となる。豊臣秀頼は「鯰尾藤四郎」を愛し好んで差料とした。慶長20年、大坂夏の陣での大阪城落城で焼き身となった。「鯰尾藤四郎」の滅失を惜しんだ徳川家康の命により越前康継が再刃した。
徳川家康の没後に行われた形見分け「駿府御分物」により御三家筆頭尾張徳川家初代徳川義直に分与された。
以後、尾張徳川家に承継され、明治維新後も尾張徳川家が所有した。所有名義は徳川黎明会、所蔵は名古屋市の徳川美術館である。