日本刀の茎の朱銘について

刀の茎一に朱漆で書かれた銘を朱銘といいます。江戸時代、本阿弥家が鑑定銘を入れるとき、元の茎が残らないほどに大きく磨り上げた場合には金象嵌銘を入れますが、元のままの生ぶ茎か、または少しでも元の茎を残して磨り上げている場合は朱銘を入れるということです。『亨保名物帳』は享保のころに成立していて、そこには、「名物松井江」(刀朱銘義弘本阿花押・重文・佐野美術館蔵)の茎が二寸ほど残っているので朱銘を入れたとありますから、江戸時代の中期にはそれが常識になっていたの可能性があります。

『亨保名物帳』には、元肥後八代の城主松井佐渡守興長(一五人二~一六六二)が所持していたので、「松井江」と呼ばれたとあります。後に徳川将軍家に移り、貞亨二年(一六八五)、将軍綱吉の息女鶴姫が紀州徳川網教に輿入れの折に引き出物とされ、本阿弥光常(家督相続期間一六六七~一六九六)によって、代金子二百枚の折り紙がつけられ、おそらくこの慶事にあたり、朱銘を入れたものと考えられます。

さて、日本刀の中でも妖刀の刀工と言われることも多いとされている刀工村正についても触れたいと思います。

村正は室町時代の伊勢国の名工と言われていたようです。徳川家康の祖父清康は天文四年(一五三五)家臣安部弥七郎によって殺され、その刀が村正だったそうです。天文十四年(一五四五)父広忠も近臣岩松八弥に殺されますが、そのときの刀も村正であったと伝えます。さらに、天正七年(一五七九)家康の長男信康が、信長の嫌疑によって遠州二俣城で切腹させられましたが、その介錯した刀が村正であったのです。これらのことから、村正は徳川家に不吉な刀と思われるようになったと言われます。

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