初代和泉守国貞は、江戸初期、摂津国の刀匠で「大坂新刀」の始祖の一人である。天正十八年、日向国の生まれで、真言宗西教寺の嗣子であったが、作刀を志し、京都「堀川派」の創始者・堀川国広に弟子入りした。
途中、慶長十九年、師匠堀川国広の死去により国広の高弟・越後守国儔に師事した。元和六年頃、 大阪に移住し、同門の河内守国助とともに「大阪新刀」の基を築いた。
日向国飫肥藩三代藩主伊東祐久の手厚い庇護を受け、元和九年、「和泉守」を受領、合わせて知行百石を賜った。晩年は、多病となり入道して「道和」と号した。
次男二代国貞・通称井上真改またの名は真改国貞の代作代銘が多くなった。初代和泉守国貞を「親国貞」と称する。
ちなみに赤穂義士堀部安兵衛が討ち入りの際に使用した刀は和泉守国貞であった。 代表作は、重要美術品「刀 銘 於大阪和泉守國貞」である。