新撰組副長助勤筆頭一番組組長の肩書だけでもこの男の天才剣士ぶりが知れようというものだ。戦国時代に匹敵する動乱期、幕末。その幕末を駆け抜けた沖田総司、享年僅か27歳であった。陸奥白河藩の下級武士、沖田勝次郎の長男として総司は生まれた。母は誰とも判っていない。父勝次郎も、総司が3歳の時死去した。よるべない境遇の総司が、江戸市ヶ谷、天然理心流道場・試衛館の内弟子となったのは9歳の時だった。総司の持つ剣の天稟はすぐさま開花した。12歳で奥州白河藩阿部指南番に勝利するほどであった。文久3年、近藤勇、土方歳三等と共に幕府が徴募した浪士組に参加。上洛後、浪士組は新撰組と名を改め、京都守護職、会津候松平容保御預となる。新撰組が、その名を世に知らしめたのは、尊攘派志士の会合場所池田屋を急襲した「池田屋事件」である。総司も急襲隊の先頭となって働いた。その戦闘中に肺結核による大喀血にみまわれた。鳥羽伏見の戦いの後、新撰組が甲陽鎮撫隊として甲斐に向かう時にも従軍しようとしたが、病状がそれを許さず、断念せざるを得なかった。沖田総司の愛刀といえば、備前国の刀工則宗が鍛えた「菊一文字則宗」だが、総司が佩用したかどうかの確証は無い。