日本刀鑑識家が著したある書物に、「刃は白く地鉄は青い」のが名刀の条件であるという記述がされていたようです。粟田口派の刀工たちは、京の都で主に朝廷に仕えた職人と言われています。また、京都以外では、相模国の正宗と正宗の師匠である新藤五国光が、「地色青く見えて刃白く冴える」と賛辞を贈られていたとされています。
ほぼ同時代の資料には、色の記載が綿密に記され、さらに刀工の評価が肩書きに付き、「上々」の作とある名工は三条宗近、栗田口国友・国吉、久園、吉光、国宗、正宗、筑紫の定秀・行平とされているようです。
「上々」の次の「上」と評価されているのは、栗田口囲網・相州貞宗・越中義弘などで、貞宗には「地色青く見えて赤みあり」とあると言われています。「上々」の評価の作には「青」と表現され、「上」の評価の作には「赤み」の色表現があるようです。
鎌倉時代に、刀剣王国とも呼ばれた備前国の刀工たちの中で、「中上」と評価されたと言われている刀工たちには、則宗・助宗・宗吉・友成・助包・包平・信房・守家・長光などがいたようです。則宗の項には「地色底青く見えて上に黒みあり」とあり、古備前の友成には「地色黒く底に見えてきらきらとあり。刃色底青くすみて上浮きやかに白し」と記され、地鉄の色は黒であるということで、地鉄に黒きが加わるようです。
数から見たら備前の刀工がもっとも多いのですが、その多くの刀工が「下の上」と評価され、「地色黒く、刃色青し」とされていたようです。また備後国の三原の刀工・正広には、「地色底黒くして上白けたり。刃色青めに鉄色堅し」という評価があります。
このように見てくると、青・紫・黒・赤・白の五色の色によって評価しているように考えられます。