一般の書物に、日本刀の名工と言われた正宗の名が初めて現れたのは『新札往来』とされています。これは貞治六年(一三六七)、洞院公賢の孫、素眼法師によって著された往来物で、庶民用の初等教科書だったようです。正宗は一説に康永二年(一三四三)没と伝えられますから、『新札往来』は正宗没後二十四年後に出版されたことになります。山城の来国行・国俊に次いで、「相州の新藤五国光・行光・正宗・貞宗」と記されています。その一連の記述を見ますと、武士が戦場で戦うために腰に侃く太刀としてではなく、神宝・寺宝として、また天皇や氏の長者の守りとしてふさわしい品位を備えた名工を意味しているとのことでした。
次いで、一条兼良(一四〇二~一四八一)が著した『尺素往来』には、新藤五国光と正宗は一代の達者であり、日本刀の名工と言われた正宗は「不動の利剣に異ならず」とされています。不動明王の名剣と同様、悪に果敢に立ち向かう名剣ということだと考えられます。
伊勢宗五が大永八年(一五二八)、七十四歳のときに著した『宗五大岬紙』に、将軍がお成りのときに進物とすべき太刀の銘として、天国以下二十三人の名工の名を掲げ、そのうちに正宗とその子貞宗が入っていたとされています。
天正八年(一五八〇)二月二十二日、堺の豪商津田宗及(?~一五九二)が京都に滞在中の織田信長(一五三四~一五八二)のもとに伺候した折に、信長が脇指(短刀を含む)十四腰、腰物(太刀)八腰を披露していたとされており、その中に「上龍下龍正宗(名物)、大トヲシ正宗」とあると言われています。この記述の順序では、まず栗田口吉光(藤四郎吉光)の四腰、次いで正宗の二腰の順で記されていたようです。
天正九年(一五八一)七月二十五日、安土城において、信長は長男信忠に「正宗」を、次男信雄に「北野藤四郎吉光」を、三男信孝に「しのぎ藤四郎吉光」をそれぞれ与えたと言われています。当時の日本刀の価値観は伝統的に序列があったとされ、『能阿弥本銘尽』には「吉光御物万疋」「正宗五千疋」と評価されています。